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東京地方裁判所 昭和58年(行ウ)17号 判決

原告

田上嘉延

右訴訟代理人弁護士

牛久保秀樹

被告

品川労働基準監督署長藤枝丞

右訴訟代理人弁護士

小松義昭

右指定代理人

藤宗和香

中島和美

益田耕介

坂田美智子

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告に対し昭和五三年二月一四日付けでなした労働災害補償保険法による療養補償給付たる療養の費用の不支給処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は被告に対し、いずれも東京労災病院が原告になした昭和五〇年一月一〇日から昭和五一年一月二八日までの間の治療に関し昭和五一年四月三日に、昭和五一年一月二九日から昭和五二年一二月二日までの間の治療に関し昭和五二年一二月二四日に、それぞれ労働者災害補償保険法に基づく療養補償給付たる療養の費用の給付を請求したところ、被告は、昭和五三年二月一四日、右各治療にかかる疾病は業務上の疾病ではないとして、右各療養の費用の不支給の処分(以下、「本件処分」という。)をした。

原告は本件処分を不服とし、東京労働者災害補償保険審査官に審査請求したが、昭和五五年九月二四日棄却され、更に昭和五五年一二月一〇日労働保険審査会に再審査を請求したが、昭和五七年八月三一日棄却の裁決がなされた。

2  しかしながら、右各治療にかかる原告の疾病は、以下に述べるとおり、業務上の疾病というべきであり、本件処分は右の点の判断を誤った違法があるから、取り消されるべきである。

(一) 原告は、昭和三九年四月からカラーフィルムの現像、カラープリントの作成等を業とする訴外株式会社アロマカラーに勤務していた。

(二) その間、原告は、昭和三九年六月フィルム係に配置され、以後、同係で行っていたエクタクロームE2、E3及びエクタカラーC22の現像処理の作業に従事した。そして、エクタクロームについては昭和四一年一〇月ころ、これが下請業者に発注されることになるまで、また、エクタカラーについては昭和四二年九月頃、自動現像となるまで、手現像による現像処理が行われていたが、右現像処理には、リールに巻き取ったフィルム(エクタクロームでは三〇ないし三六本、エクタカラーでは二一本)の入ったラックを、上部に取り付けられたつるの両端を持って各処理液に沈め、引き上げるという動作を繰り返し、その間ラックを小刻みに揺り動かしたり、傾けたりするという作業や、前日使った液を、カップを液中に入れて攪はんしてから、量を計って捨て、新しい液を補充タンクの下部の蛇口から採って補充し、一つの液が終わると、カップの中に手を入れて洗い、同様にして次の液を補充する作業、薬液を溶解する作業、温度計を処理液の中に入れて液温を測定する作業等があり、これらの作業はすべて手袋をつけず、素手でなされていたが、その手は現像液かぶれで皮膚がむけていた。原告は、これらの現像処理作業全般に従事していたのであるが、受注量の多いときは、同時に二つのラックを受け持って仕事の能率を上げることもあり、更に、昭和三九年の東京オリンピック前後は、非常に受注量が増え、日曜出勤、早出出勤も多く、残業は毎日という状況で、昼食も交替で二〇分程とるだけで、昼休みもない日が続き、更には、その頃から二人一組で暗室に入るようになって、暗室で現像処理を行う頻度は益々多くなった。

(三) エクタクロームE2、E3に使用される各処理液は、いずれも一五リットルであり、右各処理液のうち第一現像液には、いずれも一リットルあたり二グラムのチオシアン化カリウム及び臭化カリウムが、発色現像液には一リットルあたり一グラムの臭化カリウムが、漂白液には一リットルあたり七・五グラムのチオシアン化カリウムまたは一リットルあたり一〇グラムのチオシアン化ナトリウム、一リットルあたり一五グラムの臭化カリウム、並びに一リットルあたり五〇グラムの赤血塩が各含まれており、また、エクタクロームC22で使用される各処理液は、いずれも一三リットルであり、右各処理液のうち、発色現像液には一リットルあたり一・五グラムの臭化カリウムが、漂白液には一リットルあたり八グラムの臭化カリウム及び一リットルあたり二〇グラムの赤血塩が各含まれている。そして、一回の現像処理工程における、右各処理液での処理時間は、エクタクロームでは、第一現像で一〇分、発色現像液一五分、漂白八分であり、エクタカラーでは、発色現像液一四分、漂白液六分である。

(四) チオシアン化カリウム、チオシアン化ナトリウムなどのチオシアン化合物は、甲状腺機能の低下をもたらし、また、慢性的には小脳にも作用して、その機能障害を惹起するものである。赤血塩等のシアン化合物は、それ自体としても甲状腺障害をもたらして、甲状腺機能の低下を惹き起こすとともに、これが体内に吸収されるとチオシアンイオンとなってチオシアン化合物と同様の作用も果たすものである。また、臭化カリウム等の臭素化合物は、各種の脳機能障害を惹起して、小脳障害たるナルコレプシーの原因となるものである。

(五) 原告は、フィルム現像処理の作業に従事して以降、昭和四〇年から〈1〉眼、喉、鼻が痛み、咳、たんが激しくなり、〈2〉口内炎を繰り返し起こし、〈3〉紫斑が繰り返し生じ、〈4〉頭痛が絶えず、〈5〉肩凝りが激しく、〈6〉指、手首、足首の感じが鈍くなり、〈7〉手足がだるく、よく物につまづいたり、手が思うように動かなかったり、また、手に力が入らず、軽いものさえ落とすようになり、〈8〉物の間隔を正しく把握できず、フィルムをハサミで切るのにミスをするようになり、〈9〉白髪が増え、脱毛が激しくなり、〈10〉体重が四一キログラムだったのが五〇キログラム近くにまで増え、〈11〉冷え症になり、冬でもびっしょり汗をかくようになり、〈12〉眠気が激しく、〈13〉記憶力、思考力の減退を感じるようになり、〈14〉声がかすれ、時々声が出なくなり、吃ったり、ものをいい間違えるようになり、〈15〉血圧が、特に下の方が高くなり、その幅が少なくなり、〈16〉耳が聞こえにくくなり、聞き間違えをするようになり、〈17〉血沈が五~八位だったのが、五〇~六〇位と速くなり、〈18〉生理の量が少なく、長引くようになり、〈19〉体が前後に揺れ、めまいがするようになり、〈20〉食欲がなく、吐き気がし、いつも腹が張ってガスが溜まるようになり、下痢と便秘を繰り返すようになる等の症状が生じた。

そして、原告は、昭和四〇年八月三日から日本医科大学附属第二病院で子宮腟部びらん、腟炎、不妊症により診療を受けているのであるが、その間、昭和四三年一〇月八日から昭和四四年六月一三日までの基礎体温が、二四九日中三六度五分以上であったのが二〇日前後で、残り二三〇日は三六・五度以下と異常に低かったため、同年二月二八日甲状腺機能低下の疑いが生じ、同年三月五日甲状腺機能検査を行ったが、右検査結果は正常であった。しかし、その後、東邦大学附属大橋病院に昭和四六年三月八日から急性気管支炎、高血圧症により通院加療中、同年四月二六日甲状腺機能検査の結果、甲状腺機能低下症との診断を受け、昭和四八年五月一二日まで甲状腺機能低下症の、昭和四六年五月特発性血小板減少症の各治療を受け、その症状は軽快していたが、眠気がとれないため、昭和四八年三月一三日から東京労災病院に転医して、眠気、下痢、便秘、頭痛、関節痛を主訴として受診し、同年七月からナルコレプシーの疑い、昭和四九年二月から甲状腺機能低下症、小脳機能障害により、昭和五〇年六月から高血圧症により各治療を受ける間、前記療養補償給付の各請求をなしたものである。

(六) 前記の四の〈7〉〈8〉〈14〉〈20〉などの運動障害は、小脳機能障害に典型的に生ずる症状であり、また、体温低下や寒気は甲状腺機能低下症に伴う症状であるところ、原告はフィルム係でフィルム現像処理をするようになって間もなく右のような運動障害が現れ、また、昭和四三年一〇月八日から昭和四四年六月一三日までの基礎体温の低下により甲状腺機能低下症の疑いが生じているのであるが、後に東邦大学附属大橋病院や東京労災病院で甲状腺機能低下症や小脳機能障害の確定的な診断を得ていることからすれば、右運動障害や基礎体温の低下は、原告の甲状腺機能低下症や小脳機能障害の発症を示すものであり、これが徐々に進行して、右各診断に至ったものということができる。なお、前記のとおり日本医科大学附属第二病院における甲状腺機能検査の結果は正常と出ているが、右検査は通常与えられているヨードチンキ、ルゴール等の使用禁止の注意が与えられずになされ、原告はルゴール液を使用して受検したものであって、厳密な検査とはいえず、右に述べた全体の経過からして、右検査結果のみによって、右検査当時原告の甲状腺機能は正常であったということはできない。そして、原告は、前記のとおり、右現像処理作業で、大量のチアシオン化合物やシアン化合物に長期にわたり頻繁に素手で接するうちに、いずれも自然的体質と因果関係を有さない甲状腺機能低下症と小脳機能障害が併発しているのであるから、右両疾病は右現像処理作業に起因するものというべきである。また、高血圧症も甲状腺機能低下症により生ずるものであるから、右作業に起因するものといえる。更に、ナルコレプシーは、甲状腺、血圧、脳等に生ずる複合的な症状を内容とする疾病であって、原告の前記療養費用の請求書にはその記載はないが、右請求にかかる治療中にはナルコレプシーの治療も含まれており、その業務起因性が認められる場合には、右費用の支給を認めるべきものであるところ、前記のとおり原告は右現像処理作業においてナルコレプシーの原因となる臭化カリウムにも同様に接し、ナルコレプシーに罹患したものであって、右疾病も業務起因性を有するものである。

よって、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2について

(一) (一)は認める。

(二) (二)のうち、原告が昭和三九年六月フィルム係に配置されたこと、同係でエクタクロームE2、E3及びエクタカラーC22の手現像による現像処理を行っていたこと、右現像処理には、リールに巻き取ったフィルムの入ったラックを、上部に取り付けられたつるの両端を持って各処理液中で上下する作業、薬液を補充する作業、薬液を溶解する作業、液温を測定する作業等があることは認め、その余の事実は否認する。

原告はエクタクロームE2、E3及びエクタカラーC22の現像処理の準備、補助の作業に従事していたにすぎず、その作業内容は、フィルムのサイズ別、種類別の分類、フィルムのチェックラベル貼付、現像液、漂白液、硬膜液、定着液の液温調整、これら薬液の溶解の手伝い、補充、暗室内で処理されたフィルムの暗室外における水洗、清浄、漂白、定着、現像済みフィルムの乾燥、仕上等であり、暗室内における現像処理そのものには従事していなかった。更に昭和四〇年二月以降は、フィルムへのラベル貼付、現像済みフィルムのカット、写真の修正、電話の応対などの作業に従事していたにすぎない。そして、原告が薬液に接する可能性のある作業のうち、第一に漂白液を使用する漂白作業においては、何本かのフィルムのつるされているステンレス製の篭をその上部の取っ手を持って漂白槽内に入れ、時々槽内でこれを上下させる作業であり、作業にはゴム手袋が使用されているのであるから、原告がこの作業中漂白液に触れたとは考えられない。次に、液温調整の作業は薬液が入ったタンクの外側に設けられた温水の温度を約三〇センチメートルの液温計で測定するものであり、溶解作業の手伝いは男子作業員によって溶解されているタンクの中の薬液をビニールパイプで攪はんするもの、補充作業は、ポリタンクの中の補充液をタンク下部の蛇口からカップに採り、これを補充を必要とする他の薬液タンクに移すものであって、いずれの作業もゴム手袋が使用されており、これらの作業中にも原告が薬液に触れたとは考えられない。

(三) (三)は認める。

(四) (四)のうち、チオシアン化カルシウム、チオシアン化ナトリウム等のチアシオン化合物が甲状腺機能低下の作用をもつことは認め、その余は否認する。

(五) (五)のうち、原告が日本医科大学附属第二病院、東邦大学附属大橋病院及び東京労災病院において、それぞれ原告主張のとおりの診療を受けたことは認める。

(六) (六)は争う。

(1) 甲状腺機能低下症について

チオシアン化合物に甲状腺機能低下をもたらす作用があることは一応認められているところであが(ママ)、例えば毎日〇・二グラムないし〇・六グラムを一年半から二年半、あるいは毎日〇・二グラムを五週間服用したというように多量に摂取した場合に一時的に甲状腺機能低下を生じさせるのである。しかるところ、仮に、原告が、作業中何らかの原因によって、チオシアン化合物を含む薬液に触れていたとしても、薬液中のチオシアン化合物の量は多くても一リットル中一〇グラムという微量なものであるから、原告に付着した少量の薬液のチオシアン化合物の量は更に微量なものとなるうえ、手等に付着した薬液のすべてが体内に吸収されるわけではなく、吸収されるのはそのごく一部であるから、体内に入るチオシアン化合物の量は非常に微々たるものにすぎず、更に、原告は一日中漂白作業、薬液の溶解、補充作業に従事していたわけではなく、これらの業務の外にも、フィルムの仕分け、チェックラベルの貼付、現像済みフィルムの仕上げ等の作業も行っていたのであり、エクタクロームE2、E3の現像処理における漂白作業は、一時間以上を要する一現像処理過程中で八分間行われるにすぎないし、薬液の溶解作業も、主として男子従業員の担当するところであって、原告はたまにこれを手伝っただけであるから、右各作業によって吸収するチオシアン化合物は、甲状腺機能低下症をもたらすには程遠いものである。

また、チオシアン化合物は体内に蓄積されないので、これの摂取による甲状腺機能低下は、その摂取が中止されると間もなく回復するものであるところ、原告の場合、チオシアン化合物に触れる可能性があったのは、昭和三九年六月から昭和四〇年二月までの間であったが、この間及びその後数年間、原告の甲状腺の機能は正常であったにも拘わらず、昭和四六年四月二六日になって初めて東邦大学附属大橋病院で甲状腺機能低下症の診断を受け、その後、昭和四九年二月以降東京労災病院で同症状の診療を受けているのであるから、原告の甲状腺機能低下症は前記作業中のチオシアン化合物の体内吸収によるものとは考えられず、甲状腺組織に対する自己免疫性を示すマイクロゾームテスト、サイロイドテストが、昭和四七年四月一九日の伊藤病院の検査でいずれも一〇〇倍、鎮目和夫東京女子医科大学教授の鑑定時マイクロゾームテスト六〇〇倍、サイロイドテスト八〇〇倍と陽性を示しており、やっと触れる程度の小さく硬いびまん性の甲状腺腫も認められることからすれば、原告の甲状腺機能低下症は、むしろ自己免疫疾患たる慢性甲状腺炎(橋本病)に基づくものというべきである。

(2) 小脳機能障害について

原告は、東京労災病院において、眼振が認められ、アイ・トラッキングテストが軽度に障害されていることから、小脳正中部に障害ありとされているのであるが、これらの症状から小脳正中部に障害があるとまでいえるものか疑問である。小脳正中部に障害があるとすれば立つこともできない筈であるが、原告にそのような様子は見当たらない。

また、チオシアン化合物の中枢神経系への作用は、むしろ大脳性に作用するものであり、また、原告の小脳機能障害が現像処理作業への関与を終えた昭和四〇年二月から数年を経過した昭和四八年三月頃から発症していることからしても、それがチオシアン化合物に基づくものとは考えられない。そして、訴外株式会社アロマカラーでは、他にこの障害の原因となり得るような化学物質を使用していなかったのであり、前述のごとく、原告は慢性甲状腺炎に罹患しているのであるから、原告の小脳機能障害は、むしろそれに基づくものというべきである。

(3) 高血圧症について

原告の高血圧症が甲状腺機能低下症によるものであるとする根拠も明らかではないが、仮にそうであったとしても、原告の甲状腺機能低下症は自己免疫疾患によるものであるから、業務上の疾病とはなり得ない。

(4) ナルコレプシーについて

原告は、甲状腺機能低下症、高血圧症及び小脳機能障害が業務上の疾病であるとして療養費用の請求をしているのであり、右各疾病の業務起因性のみが本件審理の対象となるのであって、ナルコレプシーは本件処分の取消し事由にはならない。

また、ナルコレプシーは一年以上の長期間にわたる傾眠傾向の持続、睡眠発作、情動脱力発作、入眠時幻覚、睡眠麻痺などを中心とする症候群であるが、原告にそのような症状は認められず、原告がナルコレプシーであるとは認められない。

仮に原告がナルコレプシーであったとしても、ナルコレプシーは体質に基づく疾病であって、原告が訴外株式会社アロマカラーフィルム係の業務において接した薬液によって生じたものではない。

第三証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する(略)。

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  同2について判断する。

1  原告は、本件処分の違法事由として、原告の甲状腺機能低下症、小脳機能障害、高血圧及びナルコレプシーの各疾病の業務起因性を主張するのであるが、まず、右のうちナルコレプシーの業務起因性は本件処分の違法事由とはなり得ないものというべきである。即ち、本件処分は、原告が昭和五一年四月三日になした昭和五〇年一月一〇日から昭和五一年一月二八日までの東京労災病院における治療に関する費用及び昭和五二年一二月二四日になした昭和五一年一月二九日から昭和五二年一二月二日までの同病院における治療に関する費用の各給付請求についてなされたものであることは当事者間に争いのないところであるが、いずれも成立に争いのない乙第一号証及び第二号証の各一によれば、右各給付請求のうち、前者の給付請求の請求書には甲状腺機能低下症、高血圧症及び小脳機能障害が、後者の給付請求の請求書には甲状腺機能低下症がそれぞれ傷病名として記載されているのみであって、ナルコレプシーの記載はいずれにもなされていないことが認められる。そして、いずれも原本の成立及び存在に争いのない(証拠略)によれば、ナルコレプシーは一年以上の長期にわたる傾眠傾向の持続、睡眠発作、情動脱力発作、入眠時幻覚、睡眠麻痺等を中心とする症候群であることが認められ、甲状腺機能低下症、小脳機能障害及び高血圧症のいずれとも別個の疾病というべきであるから、本件処分はナルコレプシーによる療養補償給付の請求についてなされたものではないというべきである。

したがって、本件処分の違法事由として、ナルコレプシーの業務起因性を主張する部分は、その内容について判断するまでもなく、失当である。

2  そこで、以下、ナルコレプシーを除く各疾病について原告の主張する業務起因性について検討するに、まず、原告が昭和三九年四月からカラーフィルムの現像、プリントの作成等を業とする訴外株式会社アロマカラーに勤務し、その間昭和三九年六月からフィルム係に配置されたこと、同係の業務にエクタクロームE2、E3及びエクタカラーC22の現像処理があったこと、右現像処理は手現像でなされていたことはいずれも当事者間に争いがなく、証人堀江斉(後記措信し難い部分を除く。)の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、右エクタクロームE2、E3の現像処理は、昭和四一年一〇月頃外注に出されて、以後同係では行われなくなり、また、エクタカラーC22の現像も昭和四二年九月頃以降は自動現像で行われるようになったことが認められ、右認定に反する証人堀江斉及び同三嶋秀文の各証言はいずれも措信し難い。また、右エクタクロームE2、E3に使用される各処理液は、いずれも一五リットルであり、右各処理液のうち第一現像液には、一リットルあたり二グラムのチオシアン化カリウム及び同量の臭化カリウムが、発色現像液には一リットルあたり一グラムの臭化カリウムが、漂白液には一リットルあたり七・五グラムのチオシアン化カリウムまたは一リットルあたり一〇グラムのチオシアン化ナトリウム、一リットルあたり一五グラムの臭化カリウム、並びに一リットルあたり五〇グラムの赤血塩が含まれており、エクタカラーC22で使用される各処理液は、いずれも一三リットルであり、右各処理液のうち、発色現像液には一リットルあたり一・五グラムの臭化カリウムが、漂白液には一リットルあたり八グラムの臭化カリウム及び一リットルあたり二〇グラムの赤血塩が各含まれていることはいずれも当事者間に争いがない。

3  原告が右フィルム係においていかなる作業に従事していたものか、その作業で前記各処理液に含まれている各化学物質がどの程度体内に吸収されるものかについては争いのあるところであるが、いま、これらの点はさておき、原告が罹患したと主張する各疾病について検討することとする。

(一)  甲状腺機能低下症について

原告は、チオシアン化カリウム、チオシアン化ナトリウムなどのチオシアン化合物やシアン化合物である赤血塩には、甲状腺機能を低下させる作用があり、原告はフィルム係の現像処理作業でこれらのチオシアン化合物やシアン化合物に接した結果、甲状腺機能低下症に罹患したと主張するので、この主張について判断する。

(1) まず、チアシオン化合物と原告の甲状腺機能低下症との関係について検討するに、いずれも成立に争いのない(証拠略)によれば、次の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ⅰ) 甲状腺は、アミノ酸とヨードの化合物である甲状腺ホルモンを合成、分泌して基礎代謝を調節する臓器であるが、この甲状腺ホルモンの分泌量が過少となる疾患が甲状腺機能低下症である。

チオシアン化合物は血中の無機ヨードの甲状腺への摂取及び甲状腺中でのヨードの有機化を妨げ、甲状腺ホルモンの合成を阻害して甲状腺機能低下を惹き起こす作用がある。しかし、チオシアン化合物は体内に蓄積されないため、右発生機序による甲状腺機能低下症は、その吸収に伴って発症し、吸収が止むことによって軽快するのが通常である。

甲状腺機能低下症の主たる原因の一つとして、慢性甲状腺炎(橋本病)がある。即ち、慢性甲状腺炎そのものは甲状腺ホルモンの量の異常を伴う疾病ではないのであるが、これによる組織破壊が進行することによって甲状腺の機能低下が生ずることになる。そして、慢性甲状腺炎は自己免疫疾患の一つと考えられており、その原因は不明であるが、チオシアン化合物が慢性甲状腺炎をひき起こした症例は過去認められていない。

(ⅱ) 甲状腺の機能検査として、PBI(血漿タンパク結合ヨウ素)、BMR(基礎代謝率)、トリオソルブ等による方法があり、右各検査における正常値の範囲の取り方は必ずしも統一されていないが、一つの見解として、PBIについては五・五γ/dlから八・五γ/dlまで、トリオソルブについては二五%から三五%位、BMRについてはプラスマイナス一〇%以内を正常値とし、それぞれ、それより下を機能低下、それより上を機能亢進とする見方がある。また、甲状腺の細胞組織に対する自己免疫を調べる検査として、マイクロゾームテスト、サイロイドテストがあり、一般に一〇〇倍が限界値とされており、これ以上の値の場合が陽性とされている。そして、右各検査結果が陽性で、甲状腺がびまん性に(全体に)腫れている場合、一般に、慢性甲状腺炎が推定されることとなる。更に、甲状腺の腫れ方が硬い場合、これは病変が長く続いていることを示すものであり、慢性的な疾患を推定させることとなる。

(ⅲ) 原告は、昭和四〇年八月三日から不妊症の治療のため日本医科大学附属第二病院に通院していたところ、同病院では、原告の基礎体温が低位であるとして甲状腺機能低下を疑い、昭和四四年三月五日原告の甲状腺機能検査を実施したが、その検査値は、PBI九・三γ/dl、トリオソルブ二九・八%、BMRマイナス二・〇%であった。その後、原告は、昭和四六年三月八日から気管支炎により東邦大学附属大橋病院に通院治療していたが、昭和四六年四月二六日甲状腺機能検査を受け、PBIが五・〇γ/dlと正常値を下回ったため、同病院では甲状腺機能低下症(粘液水腫)と診断し、甲状腺末を、量を増減調整しながら、昭和四七年八月まで投与し、その結果、原告のPBIは同年五月九日五・九γ/dl、同年八月二六日三・七γ/dl、同年九月二〇日九・七γ/dl、同年一一月一八日五・六γ/dl、昭和四七年二月一〇日五・三γ/dl、同年六月一九日一一・六γ/dl、同年七月二七日七・六γ/dl、同年九月一一日六・〇γ/dl、同年一一月一一日六・八γ/dl、昭和四八年一月八日七・三γ/dl、同年四月二日一〇・〇γ/dl、同年五月一二日七・〇γ/dlと推移した。更に、原告は、昭和四七年四月一九日から伊藤病院に通院していたが、同病院の検査ではBMRプラス五%、トリオソルブ五三%で、マイクロゾームテスト及びサイロイドテストがいずれも一〇〇倍であり、同病院では、びまん性甲状腺腫と診断した。そして、原告は昭和四八年三月一三日より東京労災病院に通院したが、同病院における検査では、昭和四九年二月頃BMRマイナス一四・五%、トリオソルブ二一・四%であり、甲状腺剤服用時BMRマイナス一〇・八%、PBI四・七γ/dl、トリオソルブ二八・八%となっており、また、本件処分の審査請求についての東京労働者災害補償保険審査官による審査の過程で出された鎮目和夫東京女子医科大学教授の昭和五五年六月三〇日付鑑定に際して行われた検査では、サイロイドテスト八〇〇倍、マイクロゾームテスト六〇〇倍との値がでており、また、その際の触診では、やっと触れる程度の小さく硬いびまん性の甲状腺腫が認められている。

(2) 右の各事実に基づき考えるに、訴外株式会社アロマカラーのフィルム係で行っていた現像処理に使用されていた処理液のうち、エクタカラーC22の処理液にはチオシアン化合物は含まれておらず、チオシアン化合物を含むのはエクタクロームE2、E3の処理液であるが、同係でエクタクロームE2、E3の現像処理を行っていたのは昭和四一年一〇月までであるから、仮に原告主張のとおり原告が同係の作業でチオシアン化合物に触れていたとしても、その期間は同係に配置された昭和三九年六月から右昭和四一年一〇月までであるところ、その接触の可能性がなくなって既に二年以上経過した後の前記昭和四四年三月五日の日本医科大学附属第二病院における原告の甲状腺機能検査では、かえって亢進を示すPBIの数値が出ており、昭和四六年四月二六日に至り東邦大学附属大橋病院で初めて甲状腺機能低下が確認され、甲状腺末の投与を受けて、甲状腺機能検査の結果は次第にほぼ正常値を示すようになったが、その後、更に昭和四九年二月以降の東京労災病院における検査で再び右機能の低下が認められ、以後その治療が行われているのであって、前記のとおり、チオシアン化合物による甲状腺機能低下症であれば、その吸収に伴って発症し、中止によって軽快するのが通常であることからすれば、原告の甲状腺機能低下症がチオシアン化合物の吸収による可能性を薄いというべきであり、むしろ、前記伊藤病院及び鎮目和夫教授により行われたマイクロゾーム及びサイロイドテストの各結果並びに同教授による触診の結果からすれば、原告の甲状腺機能低下症は慢性甲状腺炎(橋本病)によるものと推定するのが相当というべきであって、原告の甲状腺機能低下症がチオシアン化合物の吸収によって生じたという原告の主張は採用し難い。なお、原告は、前記日本医科大学附属第二病院における甲状腺機能検査は、ルゴールを使用していたために、たまたまPBIが高い数値を示したのであって、この当時既に原告の甲状腺機能低下症は生じていたと主張するのであるが、(人証略)は、仮にそのような事情があったにしても、甲状腺末の投与がなされていない甲状腺機能低下症の患者のPBIが正常値の上限を上回る九・三というような数値を示すことはあり得ない旨証言しており、右証言に照らし、右原告の主張も採用し難い。

(3) 次に、原告は、原告が赤血塩の吸収によって甲状腺機能低下症に罹患したとも主張するのであるが、赤血塩の吸収によって甲状腺機能低下症が生ずることを認める証拠はなく、かえって、赤血塩の体内吸収については、(証拠略)、赤血塩(フェリシアン化カリウム)は体内に吸収されると速やかに毒性が低くシアン基の毒性は現れないフェロシアン化カリウムに変わることが認められるのであるから、右主張も採用の余地はない。

以上のとおり、原告はフィルム係の現像処理作業でチオシアン化合物やシアン化合物に接した結果、甲状腺機能低下症に罹患したものであるとの原告の主張は採用できない。

(二)  小脳機能障害について

次に、原告は、原告がフィルム係の作業においてチオシアン化カリウム、チオシアン化ナトリウム及び赤血塩を経皮吸収した結果、小脳機能障害に罹患した旨主張するので、この主張について判断する。

なるほど、(証拠略)(〈証拠略〉)に、東京労災病院において原告を診療し、小脳機能障害との診断を与えた高橋邦丕医師の、原告がチオシアン化カリウムを含む現像液に接した結果小脳機能障害が生じた可能性を否定できない旨の見解が記載されており、また、(人証略)には、チオシアン化合物は慢性の障害として小脳機能障害を惹き起こすものであり、原告の小脳機能障害が甲状腺機能低下症と一緒に起こっていることからすれば、チオシアン化カリウムにより生じたものである疑いは強い旨の見解が示されている。しかしながら、同証人の証言によれば、同医師は、チオシアン化合物と小脳機能障害との因果関係は全く分からなかったが、原告の小脳機能障害がチオシアン化カリウムにより生じたことを否定することもできないため、右各書証に前記のような見解を示したものであって、右記載は、積極的にチオシアン化カリウムへの接触により原告に小脳機能障害が生じたとする趣旨ではなかったことが認められる。また、同証言によれば、同証言におけるチオシアン化合物は慢性の障害として小脳機能障害を惹起するものである旨の見解は、(証拠・人証略)(〈POISONING〉と題する文献)の記述に基づくものであることが認められるが、(証拠・人証略)によれば、シアン化合物とチアシオン化合物とでは毒性が異なるものであることが認められるところ(人証略)が指摘する(証拠略)の記述は、シアン化合物の、しかもシアン化水素酸(青酸)の毒性についての記述であって、これを論拠としてチオシアン化合物たるチオシアン化カリウムが小脳機能障害を惹起すると考えることは到底できず、同証言における前記見解は根拠を欠くものといわざるを得ない。したがって、(証拠・人証略)からチオシアン化カリウムが小脳機能障害を惹き起こすと認めることはできず、他にチオシアン化カリウム、チオシアン化ナトリウムまたは赤血塩が小脳機能障害を惹起することを認めるべき証拠はないから、その余の点について判断するまでもなく、原告の前記主張を採用する余地はないものというべきである。

(三)  高血圧症について

原告は、まず、原告が甲状腺機能低下症に罹患した結果、高血圧症に罹患したとして、右高血圧症の業務起因性を主張するのであるが、前記(一)のとおり、原告の甲状腺機能低下症が原告の訴外株式アロマカラーのフィルム係における業務に起因して生じたものといえない以上、右主張による原告の高血圧症の業務起因性を認める余地はなく、また、原告は、原告が訴外株式会社アロマカラーでいやがらせを受けて精神的ストレスが生じ、高血圧症となったとも主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はなく、右主張も採用できない。

以上のとおりであるから、原告が本件処分の違法事由として主張するところは、いずれも根拠を欠くものというべきである。

三  よって、本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 川添利賢)

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